日本人初のアメリカ杯オフィシャルフォトグラファー 中嶋房徳:追悼写真集
日本人初のアメリカ杯オフィシャルフォトグラファー

中嶋房徳:追悼写真集

写真=中嶋房徳 文=田久保雅己

世界的に知られた海洋写真家、中嶋房徳さんが去る8月31日、病気療養中の鎌倉で天国の海へ召された。享年95歳。
日本にセーリング文化が浸透しているならば、マスコミを通じて大きく取り上げられたに違いないが、残念ながらそのようなことは起きなかった。というか、生涯の大半をニューヨークで過ごした写真家だけに、今の日本の現役セーラーたちにも馴染みが薄いのは仕方がないことではある。

そこで、若干31歳で単身渡米し、アメリカから世界に向けて魅力あふれるセーリングシーンを発信し続けたフレッド(中嶋さんのニックネーム)・ナカジマさんの逝去を悼み、その人生と作品群を記録にとどめ、脳裏に刻み込むことにした。

*

中嶋さんは兄の影響で6歳からヨットを始め、大学卒業後、フィルム会社に就職してレンズの設計を担当し、撮影試験と称して湘南の海でセーリングシーンの撮影に没頭した。

ある日、アメリカのヨット雑誌『ラダー』の誌面で、ロードアイランド沖に所狭しと多くのヨットが走っている写真を見てカルチャーショックを受けた。それまで中嶋さんが追いかけていた外洋レースでは10艇も集まれば多いほうだったため、そのようなヨット天国で思う存分写真を撮ってみたいと憧れを抱いた。

そうした日々を送っていると、まさに"念ずれば通ず"のごとく、渡米の機会はすぐに訪れた。奇しくも日米修好通商条約100年を記念して、帆船〈日本丸〉がニューヨークを訪問することになり、同乗して記録写真を撮ってほしいという運輸省航海訓練所からの依頼が届き、同乗することになったのである。

帆船〈日本丸〉船上で撮影したフィギュアヘッドに立つクルーと夕陽

太平洋上でカッターに乗り込み、〈日本丸〉を洋上からとらえた臨場感のあるアングル

74日間かけて〈日本丸〉がニューヨークに到着すると、マンハッタンの桟橋周辺には数えきれないほどのヨットやボート、さまざまな船が歓迎してくれた。その光景に感動した中嶋さんはますます米国セーリング界への憧れが増幅し、帰国後、会社を一年がかりで説得。辞表を提出するとすぐにカメラ機材を持ってサンフランシスコ行きの客船に乗った。1961年、中嶋さんが31歳のときだった。

サンフランシスコに到着すると、「すぐにポンコツの小型トラックを買って陸路ニューヨークへ。満足に英会話もできずコネもない、無謀ともいえる旅だった」と生前、中嶋さんは当時を振り返っていた。

ニューヨークからロングアイランドへ通い、活動拠点を探し、たどり着いたのはママロネックという港町だった。日本のカメラを扱う代理店の仕事を手伝いながら、ヨットクラブに出入りして、撮影した写真を雑誌社や新聞社に売り込むのだが、なかなか売れない日々が続いた。

エクスキーション灯台沖を颯爽と走るヨット。まるで絵画のような構図だ

ハリケーンが襲来する直前のエクスキーション灯台(ロングアイランド・サウンド)

スクーナーやヨールなど、大型艇によるレースも被写体となっていった

そんな中、アメリカズカップの予選で撮影ボートに乗せてもらう機会を得た。海上の天候が荒れ始め、他の撮影艇が引き上げていく中、中嶋さんは撮影を続けた。そのとき、防衛艇の本命〈コロンビア〉が、目の前でディスマストしたのである。

日本のカメラメーカーが試作した連写一眼レフを駆使して撮影。もちろん荒れた海上で撮影しているのは中嶋さんだけ。折れたマストの〈コロンビア〉艇上で呆然とするクルーたちをとらえた写真は、『ニューヨークタイムズ』や『ライフ』誌に掲載された。1962年、日本のカメラマン中嶋房徳さんが、世界のカメラマンになった瞬間だった。

ディスマストした直後の〈コロンビア〉を間近で撮影した渾身のショット(1962年)

以来、1960年から1970年代にかけて、美しい12mクラスで行われていたアメリカズカップのレース海面に入っていける3人のオフィシャルフォトグラファーの一人として活躍することになったのである。

ほかの2人とは、英国で19世紀から続くヨッティングフォトグラファー一家、ビーケン・オブ・カウズ、そして地元ニューポートで1930年代からアメリカズカップを撮り続けていた、モーリス・ローゼンフェルトとその息子。世界の2大巨匠と肩を並べた日本人初の快挙といえよう。

ニューポート沖でタッキングマッチを展開するアメリカズカップ艇

ヨットレースや海辺のシーンを撮影するために、自ら改良したカメラボート〈トライポッド〉(海上の"三脚"を意味するネーミング)で縦横無尽に走り回って撮影した写真の数々。重い機材を肩に背負い、世界中を渡り歩いて切り取った抒情詩あふれる海辺の情景は枚挙に暇がない。

光と影、海面の映り込みまでも画面構成に生かした美しいアングルの数々

SORCシリーズで活躍した日本艇〈サンバードⅤ〉(1978年マイアミ沖)

渡米前、すでに日本の外洋ヨットシーンを芸術的にとらえていた

また、1964年の東京オリンピックにおいてはセーリング競技の公式記録写真を担当。そこでも躍動感あふれるシーンを数多く撮影した。

江の島沖で撮影した東京オリンピックのドラゴンクラス(1964年)

晩年、日本に帰国した後も、日本とアメリカを行き来しながら写真教室を主宰する傍ら、いつもカメラを肩に海の情景を撮り続けていた。

親子ほど歳の差のある私の健康や仕事のことを、いつも親身になって気遣ってくれた中嶋さん。スタイリッシュなソフト帽をかぶり、ときに軽妙なジョークをとばし、人に対する思いやりがあり、女性にいつも優しい海の男のダンディズムを実践していた中嶋さん。ダンディーという言葉が似合う、数少ない日本男性の一人としても尊敬すべき中嶋さん。天国の海で、私たちの心をゆるがす写真を撮り続けてください。

親交の深かった海洋カメラマン、矢部洋一氏から届いた追悼の言葉

終生現役を貫いた破格のクリエーター

文=矢部洋一

「やあ、元気かい、最近は何撮った?」
中嶋さんと駅などで待ち合わせてお会いしたときに、必ず聞く第一声はこれだった。ちなみに、江田島(海軍兵学校)の精神を背景に持つ中嶋さんは、必ず約束の時間のずいぶんと前に待ち合わせ場所に来て、穏やかな笑顔で私を迎えてくれるのだった。

「最近は何撮った?」という言葉の中には、後輩カメラマンの私への気遣いと共に、「自分も歳を重ねたこの体がちゃんと動きさえすれば、海に出て一緒に写真を撮りたいのだ」という気持ちが込められていたに違いない。

初めてお会いしたのは、私が舵社の駆け出しカメラマンだった数十年前のことだ。当時、中嶋さんはスチール写真の撮れるビデオカメラをほぼ独力で開発し、製品化のために奔走していた。デジタルカメラの登場以前のことだ。 「シャッターチャンスは一度しかない。でも、写真も動画も両方いっぺんに撮れたら、そのチャンスをどちらも逃すことはない」と熱心に形にしたばかりのそのカメラを私に説明してくれた。そこにはクリエーター、そして光学エンジニアとしての中嶋さんの真骨頂があった。

米国に渡り、ローゼンフェルトと共にヨット写真家として活躍されていた時代のお話しも、楽しく聞かせていただいた。 当時一世を風靡していたグラフ誌『ライフ』の表紙をヨットの写真で飾った日本人は後にも先にも中嶋さんだけである。米国ロングアイランドサウンドやニューポートを拠点に、自分の撮影用ボート〈トライポッド〉を駆って、アメリカズカップを追いかけた日本人も他にはいない。

1964年の東京オリンピックではセーリング競技の公式カメラマンを務められたが、当時の日本にはフォトボートという存在は皆無だったため、中嶋さんは自衛隊の艦船を引っ張り出させてなんとか責務を果たした。そのときの写真は、神奈川県の江の島ヨットハーバーに飾られている。

晩年、お体を弱らせたあとも、中嶋さんは常にカメラを持ち歩いて、心の中では臨戦態勢を整えていた。95歳の大往生、偉大なる先達を失った寂しさは大きいけれど、中嶋さんからはたくさんの宝物、刺激と勇気をいただいた。心から、感謝と、御礼を申し上げます。

中嶋さんの仕事を支えた"三脚"

中嶋さんが建造した自家用取材ボート〈トライポッドⅡ〉

ボートに乗って被写体を追いかけるカメラマンの共通の悩みとして、海上ではなかなか自分がねらったポジションまで行けない、ということがある。しかもレース主催者が用意した相乗りの取材ボートでは、ライバルと同じ位置からの撮影となり、ますます自分の写真が撮れない。そこで中嶋さんは、自らの意志で自由に移動でき、しかもレース艇の先回りが可能な高速取材ボートを建造したのである。 2世となる写真の艇は、B.チャンス設計のアルミ製31フィートで、30ノット以上のスピードを誇る駿足。艇上のどこからでも操船できる装置、デッキ下の暗室設備など、各所にさまざまな工夫が凝らされている。1982年まで務めていたアメリカズカップのオフィシャルフォトグラファー時代にも、このボートで多くの名ショットをとらえてきた。 ちなみに艇名の"トライポッド"とは三脚の意味で、これは文字通り中嶋さんの仕事を支えてきた"脚"なのである。

 

日本人初のアメリカ杯オフィシャルフォトグラファー 中嶋房徳:追悼写真集
日本人初のアメリカ杯オフィシャルフォトグラファー

中嶋房徳:追悼写真集

写真=中嶋房徳 文=田久保雅己

世界的に知られた海洋写真家、中嶋房徳さんが去る8月31日、病気療養中の鎌倉で天国の海へ召された。享年95歳。
日本にセーリング文化が浸透しているならば、マスコミを通じて大きく取り上げられたに違いないが、残念ながらそのようなことは起きなかった。というか、生涯の大半をニューヨークで過ごした写真家だけに、今の日本の現役セーラーたちにも馴染みが薄いのは仕方がないことではある。

そこで、若干31歳で単身渡米し、アメリカから世界に向けて魅力あふれるセーリングシーンを発信し続けたフレッド(中嶋さんのニックネーム)・ナカジマさんの逝去を悼み、その人生と作品群を記録にとどめ、脳裏に刻み込むことにした。

*

中嶋さんは兄の影響で6歳からヨットを始め、大学卒業後、フィルム会社に就職してレンズの設計を担当し、撮影試験と称して湘南の海でセーリングシーンの撮影に没頭した。

ある日、アメリカのヨット雑誌『ラダー』の誌面で、ロードアイランド沖に所狭しと多くのヨットが走っている写真を見てカルチャーショックを受けた。それまで中嶋さんが追いかけていた外洋レースでは10艇も集まれば多いほうだったため、そのようなヨット天国で思う存分写真を撮ってみたいと憧れを抱いた。

そうした日々を送っていると、まさに"念ずれば通ず"のごとく、渡米の機会はすぐに訪れた。奇しくも日米修好通商条約100年を記念して、帆船〈日本丸〉がニューヨークを訪問することになり、同乗して記録写真を撮ってほしいという運輸省航海訓練所からの依頼が届き、同乗することになったのである。

帆船〈日本丸〉船上で撮影したフィギュアヘッドに立つクルーと夕陽

太平洋上でカッターに乗り込み、〈日本丸〉を洋上からとらえた臨場感のあるアングル

74日間かけて〈日本丸〉がニューヨークに到着すると、マンハッタンの桟橋周辺には数えきれないほどのヨットやボート、さまざまな船が歓迎してくれた。その光景に感動した中嶋さんはますます米国セーリング界への憧れが増幅し、帰国後、会社を一年がかりで説得。辞表を提出するとすぐにカメラ機材を持ってサンフランシスコ行きの客船に乗った。1961年、中嶋さんが31歳のときだった。

サンフランシスコに到着すると、「すぐにポンコツの小型トラックを買って陸路ニューヨークへ。満足に英会話もできずコネもない、無謀ともいえる旅だった」と生前、中嶋さんは当時を振り返っていた。

ニューヨークからロングアイランドへ通い、活動拠点を探し、たどり着いたのはママロネックという港町だった。日本のカメラを扱う代理店の仕事を手伝いながら、ヨットクラブに出入りして、撮影した写真を雑誌社や新聞社に売り込むのだが、なかなか売れない日々が続いた。

エクスキーション灯台沖を颯爽と走るヨット。まるで絵画のような構図だ

ハリケーンが襲来する直前のエクスキーション灯台(ロングアイランド・サウンド)

スクーナーやヨールなど、大型艇によるレースも被写体となっていった

そんな中、アメリカズカップの予選で撮影ボートに乗せてもらう機会を得た。海上の天候が荒れ始め、他の撮影艇が引き上げていく中、中嶋さんは撮影を続けた。そのとき、防衛艇の本命〈コロンビア〉が、目の前でディスマストしたのである。

日本のカメラメーカーが試作した連写一眼レフを駆使して撮影。もちろん荒れた海上で撮影しているのは中嶋さんだけ。折れたマストの〈コロンビア〉艇上で呆然とするクルーたちをとらえた写真は、『ニューヨークタイムズ』や『ライフ』誌に掲載された。1962年、日本のカメラマン中嶋房徳さんが、世界のカメラマンになった瞬間だった。

ディスマストした直後の〈コロンビア〉を間近で撮影した渾身のショット(1962年)

以来、1960年から1970年代にかけて、美しい12mクラスで行われていたアメリカズカップのレース海面に入っていける3人のオフィシャルフォトグラファーの一人として活躍することになったのである。

ほかの2人とは、英国で19世紀から続くヨッティングフォトグラファー一家、ビーケン・オブ・カウズ、そして地元ニューポートで1930年代からアメリカズカップを撮り続けていた、モーリス・ローゼンフェルトとその息子。世界の2大巨匠と肩を並べた日本人初の快挙といえよう。

ニューポート沖でタッキングマッチを展開するアメリカズカップ艇

ヨットレースや海辺のシーンを撮影するために、自ら改良したカメラボート〈トライポッド〉(海上の"三脚"を意味するネーミング)で縦横無尽に走り回って撮影した写真の数々。重い機材を肩に背負い、世界中を渡り歩いて切り取った抒情詩あふれる海辺の情景は枚挙に暇がない。

光と影、海面の映り込みまでも画面構成に生かした美しいアングルの数々

SORCシリーズで活躍した日本艇〈サンバードⅤ〉(1978年マイアミ沖)

渡米前、すでに日本の外洋ヨットシーンを芸術的にとらえていた

また、1964年の東京オリンピックにおいてはセーリング競技の公式記録写真を担当。そこでも躍動感あふれるシーンを数多く撮影した。

江の島沖で撮影した東京オリンピックのドラゴンクラス(1964年)

晩年、日本に帰国した後も、日本とアメリカを行き来しながら写真教室を主宰する傍ら、いつもカメラを肩に海の情景を撮り続けていた。

親子ほど歳の差のある私の健康や仕事のことを、いつも親身になって気遣ってくれた中嶋さん。スタイリッシュなソフト帽をかぶり、ときに軽妙なジョークをとばし、人に対する思いやりがあり、女性にいつも優しい海の男のダンディズムを実践していた中嶋さん。ダンディーという言葉が似合う、数少ない日本男性の一人としても尊敬すべき中嶋さん。天国の海で、私たちの心をゆるがす写真を撮り続けてください。

親交の深かった海洋カメラマン、矢部洋一氏から届いた追悼の言葉

終生現役を貫いた破格のクリエーター

文=矢部洋一

「やあ、元気かい、最近は何撮った?」
中嶋さんと駅などで待ち合わせてお会いしたときに、必ず聞く第一声はこれだった。ちなみに、江田島(海軍兵学校)の精神を背景に持つ中嶋さんは、必ず約束の時間のずいぶんと前に待ち合わせ場所に来て、穏やかな笑顔で私を迎えてくれるのだった。

「最近は何撮った?」という言葉の中には、後輩カメラマンの私への気遣いと共に、「自分も歳を重ねたこの体がちゃんと動きさえすれば、海に出て一緒に写真を撮りたいのだ」という気持ちが込められていたに違いない。

初めてお会いしたのは、私が舵社の駆け出しカメラマンだった数十年前のことだ。当時、中嶋さんはスチール写真の撮れるビデオカメラをほぼ独力で開発し、製品化のために奔走していた。デジタルカメラの登場以前のことだ。 「シャッターチャンスは一度しかない。でも、写真も動画も両方いっぺんに撮れたら、そのチャンスをどちらも逃すことはない」と熱心に形にしたばかりのそのカメラを私に説明してくれた。そこにはクリエーター、そして光学エンジニアとしての中嶋さんの真骨頂があった。

米国に渡り、ローゼンフェルトと共にヨット写真家として活躍されていた時代のお話しも、楽しく聞かせていただいた。 当時一世を風靡していたグラフ誌『ライフ』の表紙をヨットの写真で飾った日本人は後にも先にも中嶋さんだけである。米国ロングアイランドサウンドやニューポートを拠点に、自分の撮影用ボート〈トライポッド〉を駆って、アメリカズカップを追いかけた日本人も他にはいない。

1964年の東京オリンピックではセーリング競技の公式カメラマンを務められたが、当時の日本にはフォトボートという存在は皆無だったため、中嶋さんは自衛隊の艦船を引っ張り出させてなんとか責務を果たした。そのときの写真は、神奈川県の江の島ヨットハーバーに飾られている。

晩年、お体を弱らせたあとも、中嶋さんは常にカメラを持ち歩いて、心の中では臨戦態勢を整えていた。95歳の大往生、偉大なる先達を失った寂しさは大きいけれど、中嶋さんからはたくさんの宝物、刺激と勇気をいただいた。心から、感謝と、御礼を申し上げます。

中嶋さんの仕事を支えた"三脚"

中嶋さんが建造した自家用取材ボート〈トライポッドⅡ〉

ボートに乗って被写体を追いかけるカメラマンの共通の悩みとして、海上ではなかなか自分がねらったポジションまで行けない、ということがある。しかもレース主催者が用意した相乗りの取材ボートでは、ライバルと同じ位置からの撮影となり、ますます自分の写真が撮れない。そこで中嶋さんは、自らの意志で自由に移動でき、しかもレース艇の先回りが可能な高速取材ボートを建造したのである。 2世となる写真の艇は、B.チャンス設計のアルミ製31フィートで、30ノット以上のスピードを誇る駿足。艇上のどこからでも操船できる装置、デッキ下の暗室設備など、各所にさまざまな工夫が凝らされている。1982年まで務めていたアメリカズカップのオフィシャルフォトグラファー時代にも、このボートで多くの名ショットをとらえてきた。 ちなみに艇名の"トライポッド"とは三脚の意味で、これは文字通り中嶋さんの仕事を支えてきた"脚"なのである。