世界最古の歴史を持ち、セーリング界で最も格式高いスポーツトロフィーであるアメリカズカップ。その防衛を連続で成功しているのが、エミレーツ・チームニュージーランド(以下、ETNZ)を擁するセーリング大国、ニュージーランド(NZ)だ。今回はそんなNZのボート建造事情と、母国での次回大会の開催を目指したETNZの動向について、プロセーラーの西村一広さんに解説いただいた(編集部)
◆メインカット
photo by Carlo Borlenghi / America's Cup
オークランドで開催された2021年第36回ACでは、陸上でも海上でもかなり厳しい観戦制限が設けられ、海外のファンの入国はほとんど拒絶された。コロナが収まった今、ETNZの母国での防衛戦を望む声は多い
NZのボート建造界事情
所用があって、この1年の間に、ニュージーランド(以下、NZ)を3度訪れた。この国は、2020年1月のコロナ禍発災の直後から厳しいロックダウン政策を取り、一般外国人の入国をほぼ完全に拒絶した。つまり、事実上の鎖国状態になった。
コロナ禍前の2018年の暮れに第37回アメリカズカップ(以下、AC)案件を手に携えて訪れて以来、6年。その年月の間にNZは欧米並みに物価の高い国になっていた。スーパーに並ぶ商品の多くや、パブのビールやワイン、ガソリン、それら全ての価格は日本をはるかにしのぐ。
オークランド市のモーターウエイを走るクルマを見ても、日本の都会を走るクルマと同じように多くがきれいに磨き上げられ、欧・米・日の高級車がちっとも珍しくなくなっていた。日本だと値段が付かないようなオンボロの、洗ったことがなさそうな中古車が主流だった頃を思い出すと、ウソのようだ。物価も、道を走るクルマの光景も、この国の国民の所得が増えたからこそのことなのだろう。
悪いことではない。NZは経済的に“発展”したのだ。
ここでNZのマリン業界に思いを巡らせてみる。少し前まで、この国のワンオフヨット建造業は、高い技術力と安い人件費を武器に、品質とコストパフォーマンスに優れたセーリングヨットやモーターヨットを国外のマーケットに提供し、高い人気を誇っていた。この国の造船職人たちが造る外洋セーリングヨットを気に入って注文する日本人オーナーも少なくなかった。
しかし今では、高くなった人件費が反映されて価格競争力を失ったことを主な要因として、ごく一部の例を除いて、NZ製のワンオフボートを海外で見ることはほとんど無くなった。それはNZ国内においても同様で、オークランド市内にあるNZ最大のマリーナ、ウエストヘイブンマリーナを見て回っても、ほぼ全てのセーリングヨット、モーターヨットは日本でもよく見る欧州ブランドが占める。
絶滅危惧種
数行上に書いた「ごく一部の例」とは、AC関係のボートと、ラッセル・クーツとラリー・エリソンがけん引するSailGPのF50艇群、そして、あるNZビルダーが造る優れたモス級、49er級、29er級、470級、420級、といったディンギー艇群を指す。
2024年にバルセロナで開催された第37回ACで防衛に成功して、AC戦3連覇を果たしたエミレーツ・チームニュージーランド(以下、ETNZ)の防衛艇〈タイホロ〉(AC75クラス)は、もちろんNZ製のワンオフ艇だ。その防衛艇だけでなく、超高速でフォイリングして走るAC75クラスと同じスピードでプレーニングして伴走しなければならない高速サポートボートもNZ製だ。
ETNZの開発・ビルディングチームの手によるAC75クラス(上写真)とゼロエミッションの燃料電池フォイリング艇〈チェイス・ゼロ〉(下写真)も、NZのワンオフ艇建造文化の最も新しい結晶そのものだと言うことができる
photos by job vermeulen
ETNZの艇だけではない。第37回ACでETNZに挑戦したイギリスチームも、スイスチームも、イタリアチームも、ACにおける敵国であるはずのNZのボートビルダーに、それぞれのサポート艇群を発注して建造したのだった。軽くて強靭な艇を造る彼らの技術を信頼したからにほかならない。つまり現在では、ACを頂点とするトップクラスのセーリングレースの分野のみに、国としてのお家芸だったNZのワンオフ艇建造技術の血統がかろうじて受け継がれていることになる。
ニュージーランドの一流のカスタムボートビルダー、ロイド・スティーブンソンは母国ETNZからの注文でカスタムメイドの高速チェイスボートを開発しただけでなく、イギリスとスイスの挑戦チームのチェイスボートを開発し製造した
photo by Lloyd Stevenson Boatbuilders
次回AC
オークランド復帰なるか
一般外国人に対する厳しい入国制限にもかかわらず、結果的にパンデミックを防ぎ切れなかった2021年当時のNZ政権だが、その年にオークランドで開催された第36回ACでも厳しい観客制限を設けた。そしてその、ほぼ無観客で開催したAC戦の経済効果がマイナスだったという、ある意味当然の資料を元に、その政権は第37回ACのNZ国内開催にも消極的方針を取り、結果としてそのACは、NZから遠く離れた地中海のバルセロナで開催せざるを得ない流れになった。
このことは恐らく、NZ国民の多くが積極的に望んだことではなかったはずだ。もちろんそれが直接の原因ではなかっただろうが、2023年の選挙で、その政権は敗北した。
第37回AC開催による莫大な経済効果をバルセロナ大学が発表する中、この3月5日、うれしいニュースがNZから飛び込んできた。NZオークランド市の経済と文化の振興をつかさどる公的機関が、第38回ACの開催地を再びオークランドに取り戻すための話し合いをETNZと始めたことをメディアに明らかにしたのだ。
昨年2024年バルセロナの秋に開催された第37回ACが、バルセロナに20億ユーロを超える経済効果をもたらせたという調査結果を、バルセロナ大学が発表した
illustration by Emirates team NewZealand
ニュースをじっくり読むと、結構本気度の高い話し合いのように思える。NZの伝統文化であり、外貨獲得という経済効果を生み出す造艇技術にダイレクトにつながっているACを、NZ国内に引き止めておく重要性に気付いている機関のようである。期待が持てる。
グリーンリップマッセル(NZ特産の大型ムール貝)をNZ産の白ワインで蒸して大量に食べるのが大好きなのだが、スーパーマーケットでの価格は2倍強になってしまった。それでもまだまだ安い。次回ACはやっぱりニュージーランドで観たいと私は思う。
(文=西村一広)
※本記事は月刊『Kazi』2025年5月号に掲載されたものです。
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西村一広
Kazu Nishimura
小笠原レース優勝。トランスパック外国艇部門優勝。シドニー~ホバート総合3位。ジャパンカップ優勝。マッチレース全日本優勝。J/24全日本マッチレース優勝。110ftトリマランによる太平洋横断スピード記録樹立。第28回、第30回アメリカズカップ挑戦キャンペーン。ポリネシア伝統型セーリングカヌー〈ホクレア〉によるインド洋横断など、多彩なセーリング歴を持つプロセーラー。コンパスコース代表取締役。一般社団法人うみすばる理事長。日本セーリング連盟アメリカズカップ委員会委員。マークセットボットジャパン代表。