5月2日発売の『Kazi 6月号』の特集:安全対策考「生きて帰る」の中で艇体放棄について考察してみました。
艇体放棄なんて自分には関係無いと思われる方も少なくないのでしょうが、ワールドセーリングの『OSR(外洋特別規定)』では、“落水”と共に“艇体放棄”時の段取りと手順(ルーティン)の艇上トレーニングを少なくとも年に1回以上、全てのレースカテゴリーで行うように、となっています。
落水事故時のルーティンについてはこれまで何度も取りあげられてきましたが、艇体放棄についてはあまりなく、教科書も少ないため、今回の特集は全てのセーラーにぜひとも読んでおいていただきたい内容です。
『Kazi』2023年6月号。特集「生きて帰る」P34-35
記事を書くにあたって思い出したのが、30年前の『KAZI』 1993年11月号。やはり「安全特集」が組まれていて、その中でライフラフトでの「漂流実験」を行っています。筆者が実際にライフラフトで一晩漂流し、まあ漂流実験というより体験記を書いています。
艇体放棄に至る事故は、
1:艇体放棄しなくて済むためにやるべきこと
2:艇体放棄を決断すること
3:艇体放棄の準備
4:ライフラフトの展開
5:ライフラフトへの乗り移り
6:漂流初期の行動
7:生き延びるために
といった局面に分けられると思いますが、『OSR』でいう“艇体放棄時のルーティン”は2、3から4の手前までを指していると思われます。
今回の特集での記事「艇体放棄」では6の初期あたりまで触れてはいますが、4、5、6ついては、30年前の記事をぜひとも読んでいただきたいと思い、「舵オンライン」で再掲していただくことにしました。
誌面掲載時はダラダラと長い文章でした。web掲載にあたって、途中に小見出しを入れて段落を分けweb上でも読みやすくしてみました。
『KAZI』 1993年11月号記事再掲載
まず最初にお断りしておくが、筆者自身、今までの長距離航海ではあまりライフラフトについて深く考えていなかった。ラフトよりも、ストームトライスルなどの走り続けるための備品の方に注意をそそいで出港準備をしていたのである。ヨットが沈むという事態を想定しての危機感が薄かったのかもしれない。
一昨年(1993年当時)の〈たか〉の事故の時にも、ライフラフトの重要性よりも、なぜラフトを使わなければならなかったのか、つまり、なぜ船を離れなければならなくなってしまったのか、ということの方に関心がいったものだ。
実際には、十何年か前に紀伊水道の真ん中で、突然の激しい浸水を経験したことがある。原因は、非常にいい加減で無責任な修理のおかげで、キールが取れそうになったためであった。しかし、この時もライフラフトで脱出、ということは、全く考えなかったように記憶している。
今考えてみれば、〈マリンマリン〉と同じような状況に遭遇する可能性が大きかったのである。バケツで水をかきだしながらサントビアにたどり着き、上架してみると、キールの前後には大きなヒビが入りグラグラの状態。いつ脱落しても不思議はない状態だったのだから。
それでも、ライフラフトのことを考えなかったのは、それほど、ヨットという乗り物に対する信頼が厚かったということなのだろうか。別の考え方をすれば、我々ヨット乗りにとって、ライフラフトを使わなければならないという状況は「突然やって来る」といってもいいのかもしれない。
今回ライフラフトでの漂流実験を行ってみて、いかに自分がライフラフトのことを知らなかったか、ということを思いしらされた。これは多くの読者にとっても同じだと思う。ほんのわずかの経験ではあるが、ここに体験結果を御報告したい。
ラフトが開く瞬間。この時点で風にあおられたら裏返しになってしまうような気もする。開く際にラフトが艇に押し当てられないようにするためにも、また乗り移る時のことを考えても、ラフトは風下側に投下するほうがいいと思った
ヨット乗りがライフラフトとかかわりを持たなくてはならないような状況を考えてみると、大きく二つの段階に分けられると思う。つまり、ラフトを膨らませて乗り移り、漂流を始めるまでが第1段階。さらにラフトの上でいかに長く生き延びるか、という問題が第2段階である。
さらに、どの時点で自分のヨットに見切りをつけラフトに乗り移るべきか、という判断も非常に大きな問題である。しかし、このあたりはテーマが広くなってしまうので、ここでは触れないことにする。第一段階を中心に、第二段階のとば口あたりまでにテーマを絞りたい。
実験は(1993年)7月4日から5日にかけて相模湾で行われた。当初は日本で発売されている4社すべてのラフトを使って違いを調べてみよう、という企画であった。通常このような取材では、各社とも宣伝になるということで、わりとすんなり拝借できるのだが、ライフラフトについてはいったん使用するとパッキングに数万円もかかってしまうということもあり、なかなか交渉もうまく進まない。
日本では、ライフラフトは宣伝しても仕方がない商品であることも確からしい。欧米のヨット雑誌にはイ―パーブ(EPIRB)なども含め安全備品の広告が多く見受けられるが、日本の雑誌にこうした広告は少ない。これは、けっしてメーカーの責任ではなく、やはり許認可の問題も含めてユーザー側の認識の問題なのかも知れない。
結局、ただ一社、東洋ゴム工業が快く引き受けてくれて、今回の実験の開始となったわけである。
実験に使用したのは同社の小型船舶用膨脹式救命いかだ、TRU-6型と呼ばれる6人乗りのもので、FRPコンテナに入れ、近海仕様の艤装品を装備してもらった。つまり、フル装備である。母船は41フィートのセーリングクルーザー。ドッグハウス上にラッシングしたが、受け枠のサイズが合わないので不安定である。
実験海域は相模湾のド真ん中。当日は南の風がそよそよと吹くいい天気であった。
漂流者は5人。こういった苛酷な実験には常に参加させられる「編集部のダチョウ倶楽部」こと、寺澤は26歳。IORボートに乗るレーサーでもある。
永井は今回の担当編集者。父親のセーリングクルーザーに乗っているので海には十分慣れている、22歳の女性。
佐藤はウインドサーフィンに凝るがっちりしたスポーツマンタイプ、32歳。特に志願して参加。
「カヤッカーは本来漂流者である。」が口癖の内田も、今回特に希望して参加。8月号(1993年『KAZI』)で登場したプロのカヤッカー。台湾~鹿児島、西表~東京と、漕ぎ続ける38歳。
さて、いよいよラフトを投下することにする。コンテナからは赤白2本のラインが出ている。赤は膨脹用自動索で、白が舫(もや)い綱である。
筆者はメーカーから送られてきていた取り扱い説明書を読んでいたが、筆者以外のメンバーには、これを見せていなかったので、これらの2本のロープの意味が分からなかったようだ。実際、取説など読んでないクルーがほとんどだろうし、取材したほかのメーカーでは説明書のないものまであるようだ。やはりこれらの説明はコンテナに大書してある必要があるのではないだろうか。
こちらはプラスチモ製のラフト。コンテナに説明が書いてあるので、誰が操作してもまごつかない。把手も付いているので、持ち運びも楽そうだ。使ってみたわけではないが、一日の長がありそうだ
膨張用自動素はラフトが膨らむと最終的にはラフトから切り離される。つまり、舫い綱を結んでいないと、ラフトは展脹したとたんに流されていってしまう。実際にこうした事故の例があるようだ。いよいよ船に見切りをつけようと、悲壮な決断を余儀なくされた途端、頼みのラフトが流されてしまったのでは泣くに泣けない。
おまけにこの舫い綱は6ミリ程度の細索で、いかにも頼りない。沈みゆく船の上で、最後の頼みの綱であるラフトを海に投下する際に、この舫い綱だけを信じるのは勇気がいることかもしれない。筆者がいつも乗っているレース艇に積んであるラフトには、赤いライン1本しかない。もちろんこの場合、膨張用自動素と舫い綱が兼用されているのだろうが、どうも不安になってしまう。
かといって、デッキの上で膨脹させるのはよくないようだ。艤装品や突起物によってラフトに穴があく恐れがある。
〈たか〉号の事故報告書によると、ラフトはデッキの上で開いている。佐野氏の話では、とにかくラフトを開き、いつでも退船できるようにしておいてからヨットの排水作業を行おうとしたらしいが、ラフトが開いた途端、なにかに吸い込まれるように全員ラフトに乗り込んでしまったという。そして、全員を乗せたまま、ラフトは波にさらわれて自然に海面に降りたそうだ。
最悪の事態におちいった乗組員の心理状態を考えると、今この場で筆者がとやかくいう資格などないが、退船に際して、かなり混乱している様子が伺える。また、おいそれとあの舫い綱を信じてラフトを海に投下する気になれない心理も、なんとなく理解できる。結果としてラフトは破れずに済んだものの、この後、装備品の大半を流失してしまったのも、この時の混乱が遠因になっているのかもしれない。やはりラフトはデッキの上で開いてはいけないのだろう。
さて、話を実験に移そう。
膨張用自動索と舫い綱を船に結び付けて、ラフトを海面に投下する。ゴロリと転がして落とせれば苦労はしないのだが、ヨットの場合ライフラインがあるのでそうはいかない。筆者と内田両名でコンテナをかかえ上げる。コンテナは約50キロ。重い。それでも当日は波が無く、船が揺れていなかったので、わりと楽に投下できたが、荒天時にはどうだろう。
通常、船の上では「片手は船のために、片手は自分のために」などといわれている。しかし、この場合「両手を船のために」使わなければならない。おそらく、このコンテナは転がして投下するように設計してあるのだと思うのだが、つるつるしていて非常に持ちにくい。
把手をつけるなど、デッキの上を運搬しやすいような形態にできないものだろうか。おかげで、ラフトを投げ入れるクルーの姿勢は非常に不安定で無防備である。必ずハーネスを着用し、落水の防止に努めるべきであると感じた。
ラフトはかなり持ちにくい。なにか手掛かりが欲しいところだ
コンテナを投げ入れるが、そのままでは開かない。赤い膨脹用自動索を何度か引っ張って、やっとラフトは開きだした。ハワイでの〈アン〉の事故の際に、なかなかラフトが開かなくて苦労したという話を聞いたが(『番外編』を参照)、今回使った東洋ゴム工業のTRU-6型の場合はそうでもない。
おそらくもう少し波のある状態ならば波の力だけでも自動的に開いたかもしれないという程度である。ラフトは見る間に開き、やがて天幕も自動的に展張。余ったガス(だと思う)が勢いよく放出され、いかにも頼もしい。なんだか希望が沸いてくるような気分の高揚さえ感じた。
取材の過程で、ラフトが開く際反転してしまうことがある、という話も何度か耳にしが、この時は正常に開いている。しかし、上の写真のタイミングで風にあおられたら、恐らく反転してしまうのではないかとも見てとれる。
もちろん反転した場合の復正装置もついている。これはホビーキャット(カタマランディンギー)の沈起こしロープのようなものだ。実験隊としては漂流後に複正実験を行う予定であったが、天候の悪化により試してみることができずに終わってしまった。最初にやっておけば良かった。非常に残念である。
さっそく乗り込むことにする。
ラフトは2カ所ある出入り口が開かれて、室内灯と天幕の外部先端に付いている標識灯が点灯した状態で浮いている。おそらく夜間でも戸惑わずに行動できるはずだ。おまけにこの日は写真のように、非常に穏やかな海で、乗り移りは何も問題はなかったように思われた。
が、結局、取材用の機材を一部母船に忘れてしまうなど、けっして冷静沈着にというわけにもいかなかった。我々はこの日体験取材をすることが前から分かっていて、このように穏やかな海で、時間的な余裕も十分にある。それでもなお、ラフトに乗り移るということは、何か不思議な「焦り」を船乗り達に与えるのかも知れない。
ラフトに乗り移る。舫いロープに絡まっている白い布はラフトを包んでいたもの。最初これがシーアンカーかと勘違いしてしまった
通常はここで舫い綱を切断し、漂流に移るということになる。舫い綱を切るためのナイフは、出入り口、舫い綱付け根のすぐ近くに装備されている。
装備してあるナイフ。安全に気をつかって角が丸くなっている。鞘に納めて収納。落とさないように紐も付いている
過去の事例では、このナイフの備え付け位置が分からなかったため、舫い綱を切ることができず、本船に戻り舫い綱をはずそうとしたとき、本船が転覆、死亡したという事故があったという。そういった貴い犠牲の上に、ラフトも改良されているのだろう。
文字も大きく表示され、ナイフの位置は非常に分かりやすい。このナイフは落とさないように紐で結ばれ、さらに角が丸くなっていてラフトを傷つけないようになっている。これは漂流者の自殺防止ということも考えられた処置だという。
今回の場合、ラフトは借り物なので、舫い綱は切らずに母船側で解いてもらった。13時30分、いよいよ漂流開始だ。
[再掲載記事、前編はここまで]
と、当時38才の筆者が綴っておりますが、実際には乗り移る際の順番や乗り移った後の行動が重要で、そのあたりは2023年5月2日発売の『Kazi』6月号をご覧ください。
こちら、30年前の漂流実験は後編に続きます。
(文=高槻和宏、写真=舵社 協力=東洋ゴム工業、三洋商事、第3管区海上保安本部 ※協力は当時のもの)
※関連記事は、月刊『Kazi』2023年6月号にも掲載。バックナンバーおよび電子版をぜひ
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