世界最高峰のヨットレース、第37回アメリカズカップは、ロイヤル・ニュージーランド・ヨット・スコードロン代表艇〈タイホロ〉が英国の挑戦者ロイヤル・ヨット・スコードロン代表艇〈イネオスブリタニア〉を7勝2敗という圧倒的なスコアで破り、2大会連続で防衛を果たした。フォイリング(水中翼による翼走)によって艇速100km/hオーバーで競われた、エクスストリームスポーツとなったアメリカズカップ。14年ぶりに地中海を舞台に繰り広げられたカップ争奪戦を、プロセーラーの西村一広さんに振り返ってもらった(編集部)。
◆メインカット photo by Ricardo Pinto / America's Cup | 銀杯(アメリカズカップ)を防衛したロイヤル・ニュージーランド・ヨット・スコードロン代表艇〈タイホロ〉に歓喜し、もみくちゃになるメディアボートや観覧艇
7勝2敗というスコアで防衛を果たしたあと、勝利を祝福するレース関係者艇や観戦ボート群に囲まれた防衛艇〈タイホロ〉のマストに、カタルーニャ語で「ありがとうバルセロナ」と書かれたフラッグが翻る
photo by Ricardo Pinto / America's Cup
1987年第26回大会で初めてACに挑戦したニュージーランド。善戦したものの本戦には届かず苦い思いを経験した。このときジェノアトリマーとしてこの挑戦艇に乗っていたのが、現在グラント・ドールトンの右腕としてエミレーツ・チームニュージーランドのCOOを務めるケビン・シューブリッジで、その苦い経験を活かしたチーム運営を推進する
photo by Roger Garwood-Colorific / Imperial Press
英国からの挑戦者が勝ち取った2レースのうちの一つは、レース実施条件下限の風速6.5ノットのコンディションで、防衛艇をブランケットに入れてフォイリングできなくして置き去りにし、フィニッシュまで見事にフォイリングを維持した、英国人セーラーたちの素晴らしいセーリング技術によるものだった
photo by Ian Roman / America's Cup
王者の軌跡
前回大会に続いて第37回アメリカズカップ(以下、AC)で防衛に成功したエミレーツ・チームニュージーランド(以下、ETNZ)は、1983年以降、ACに3回連続して勝利した初めてのチームになった。NZは、いつからこんなAC強豪国になったのだろうか?
NZが初めてACに挑戦したのは、1987年にオーストラリアのフリーマントルで開催された第26回大会でのこと。それは筆者が初めてAC争奪戦を現地で生で観た大会でもあった。その次の大会に日本からACに挑戦する準備をしていたある組織(ニッポンチャレンジとは別組織)のボスからの要請で、筆者は前年の10月から始まった13もの挑戦チームによる挑戦者選抜戦の緒戦から、翌年2月に米国がオーストラリアからカップを取り返したAC争奪戦の最終レースまで、ほぼ全てのレースを現地に張り付いて見続けた。
王者のルーキー時代
当時、世界の外洋レース界のトップを走っていたNZ人ヨットデザイナー3人がチームを組んで設計した世界初のFRP製12mクラスに乗る若いNZチームは、挑戦者選抜戦の緒戦から快調に飛ばし、3ラウンド行われた総当たり戦では、1敗を喫しただけでトップ通過を果たし、ACルーキーながら挑戦者候補最右翼に躍り出た。その勢いのまま準決勝を4戦全勝で勝ち抜いたが、決勝では、デニス・コナー率いる米国艇がこの若いNZチームの前に立ちはだかった。
NZにとっては不運なことに、米国艇が好んだ強風でのレースが続いてしまった決勝で、真っ正直な若さが目立ったNZは、見方によってはまるで自滅するかのようにして4レースを失い、そのAC戦の挑戦者の座に上り詰めることができなかった。
米国がオーストラリアの防衛艇に圧勝したAC本戦を観た限りでは、もし米国ではなくNZが防衛艇と対戦したとしても、楽に勝てただろうと誰もが思った。NZは初めてのAC挑戦で、その実力を欧米列強に見せつけたのだった。
繰り返した挑戦で得たもの
初挑戦でACに至近距離まで迫りながらそれを逃したNZは、その敗退直後に、現在ではオークランド市内の海洋博物館前に展示され“KZ-1”という名で知られる全長120フィートの巨大モノハル挑戦艇の建造を秘密裏に始め、完成と同時にデニス・コナーに挑戦状をたたきつけた。
しかし、その挑戦状の不備を突いて、コナーはウイングセール(硬質セール)を備える双胴の防衛艇で応戦し、再びNZを退けた。さらに4年後の1992年にIACC(International America's Cup Class)を制式艇として開催された第28回ACにもNZは挑戦し、挑戦者決定戦の決勝まで進んだものの、AC本戦進出はならなかった。
そして1995年の第29回AC、NZのチームボスとなった故 ピーター・ブレイクが自宅を抵当に入れるなどして資金を用意した4回目の挑戦で、NZは初挑戦から8年目にして、ついにACを獲得する。しかしNZはそのACを一度は防衛したものの、その直後にセーリングチームが崩壊し2度目の防衛には失敗してカップを失う。
NZのACチームの立て直しに2004年からグラント・ドールトンが参画し、そこからETNZ時代が始まる。そして2017年の第35回ACで、14年振りにカップを取り戻すことに、ついに成功したのだった。王者になったETNZが、失敗から学んだことは少なくなかった。
(後編に続く)
40ノット、50ノットで走るヨットでも、スタートラインをジャストのタイミングで、相手よりも速いスピードで走り抜けることと、最初のシフトやパフをつかむことが、勝つために重要なのは、一般のヨットでのマッチレースとまったく同じ。バルセロナ市すぐ沖のレース海面に吹くオフショアの風は、右海面にいいパフとシフトが入ることが多いらしく、王者がスタートから右に行く場面が多く観られた。そのことで相手よりもタッキングが1回多くなる不利は、タッキング中とその直後の風上への真速度を高く維持する技術を鍛えることで補った
photo by Ian Roman / America's Cup
再びアメリカズカップを手にしたピーター・バーリング。今回のACのために49er級のパリ五輪キャンペーンを諦めたバーリングとブレア・テュークは、替わりにアメリカズカップ争奪戦3連勝という栄誉を手に入れた
photo by Ivo Rovira / America’s Cup
第37回ACリザルト
(文=西村一広)
※本記事は月刊『Kazi』2025年1月号に掲載されたものです。バックナンバーおよび電子版をぜひ
西村一広
Kazu Nishimura
小笠原レース優勝。トランスパック外国艇部門優勝。シドニー~ホバート総合3位。ジャパンカップ優勝。マッチレース全日本優勝。J/24全日本マッチレース優勝。110ftトリマランによる太平洋横断スピード記録樹立。第28回、第30回アメリカズカップ挑戦キャンペーン。ポリネシア伝統型セーリングカヌー〈ホクレア〉によるインド洋横断など、多彩なセーリング歴を持つプロセーラー。コンパスコース代表取締役。一般社団法人うみすばる理事長。日本セーリング連盟アメリカズカップ委員会委員。マークセットボットジャパン代表。