プロセーラーの西村一広さんによる、スペイン・バルセロナで開催されている第37回アメリカズカップの挑戦者分析の後編。今回は、アメリカンマジック(アメリカ)、アリンギ・レッドブルレーシング(スイス)、イネオス・ブリタニア(イギリス)の三つのシンジケートを紹介する(編集部)
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メインカット | photo by C. Gregory / INEOS Britannia | テックエリアから姿を現した英国の挑戦艇、イネオス・ブリタニア
NYYC AMERICAN MAGIC
アメリカンマジック(アメリカ)
photo by Ugo Fonolle / America’s Cup
スリングズビーとグッディソン
トップフォイリングセーラーが鍵
このチームの前回第36回AC挑戦艇(チーフデザイナーだったのはマルセリーノ・ボティン)は、前回参加艇の中で最速記録を樹立した。予選レース中の事故で大破してしまうまでは、カップ奪取の可能性に期待が寄せられていた。
今回の挑戦艇は、艇体ボリュームがルール一杯まで小さく、船体の高さが非常に浅い船型を持つ。その浅さは、セールトリム関係の駆動系に必要な動力を足漕ぎペダルで注入する左右2人ずつのサイクラーの体をデッキ下に収めるために、リカンベントバイク(仰向けに寝そべって乗る自転車)のような姿勢で漕ぐシステムを導入しなければならなかったほどだ。つまり、力漕しづらく、競走には向かないペダルシステムを採用せざるを得ないほど価値が高い船型だということになる。
この艇を、トム・スリングズビーとポール・グッディソンの、2人のトップフォイリングセーラーが、8月末までにどこまでチューンアップしていけるかが、大きな鍵を握っていると思われる。
ALINGHI RED BULL RACING
アリンギ・レッドブルレーシング(スイス)
photo by Alinghi Red Bull Racing
2度銀杯を手にしたアリンギ
今大会の意外なダークホース
このチームのボスは、スイス人のエルネスト・ベルタレッリ。初めてACに挑戦した第31回大会(2003年)で、当時の防衛国ニュージーランドに大勝してACを獲得。続く第32回AC(2007年)にも防衛を成功させたが、変則マルチハル対決となった第33回AC(2010年)で、第31回ACで自チームのスキッパーだったラッセル・クーツが率いる米国チームにカップを奪われた。それ以来のAC挑戦になる。
実は、このチームを除くすべてのチームは、王者ETNZのデザインチームメンバーが開発・販売する性能解析ソフトを使って今回の挑戦艇の開発を進めた(フランスチームは、防衛艇のデザインそのものを購入)。唯一、独自の手法で設計作業を進めたこのスイスチームの挑戦艇が、ほかの艇群と大きく異なって見えるのは、ある意味当然のことかも知れない。
ここのデザインチームは、スペイン人鬼才デザイナー、マルセリーノ・ボティンが率いる。ボティンとベルタレッリは、2021年の第36回ACでボティンがアメリカンマジックと契約する前からAC75のデザインについて語り合う仲だった。
バルセロナで各挑戦艇の走りを観察している関係者の間では、アリンギは今回のダークホースだ、という説がささやかれ始めている。
INEOS BRITANNIA
イネオス・ブリタニア(イギリス)
photo by C. Gregory / INEOS Britannia
photo by C. Gregory / INEOS Britannia
サー・ベン・エインズリー率いる
170年の時を越えた英国のプライド
記事「AC日記04-8」で尻切れトンボになってしまったこのチームの挑戦艇についての記述の続きをここに書く。「このチームの挑戦艇は、かなりの性能を隠し持っている」というYouTubeアカウントのMozzy Sailsが、そう考える理由は二つある。
一つは、「AC日記04-8」の写真説明文に書いたように、船首にボリュームがあるバッスル。特徴あるこのバッスルにはノーズダイブを防ぐこととは別の、より重要な役割があって、それはテイクオフ前の排水量モード時に、その浮力でバウを上げて艇をスターントリムにして、それによってフォイルとエレベーター(ラダー下端の補助翼)に、より大きな迎角を与えるためだというのだ。ほかの挑戦艇に比べてバッスルがトランサムよりもかなり前で断ち切られていることも、そのスターントリムに貢献する。
思い出せばこのチームは、前回のAC挑戦者決定戦ではテイクオフ性能に劣って惨敗した。今回、相手よりも低い速度でテイクオフできる方法を探し出したとしたら、それだけで重要な武器を一つ手にしたことになる。
そして二つ目。これは、一つ目よりももっと重要かもしれない。このチームの挑戦艇は、ラダーの下端にあるエレベーターに上向きだけでなく下向きの揚力を発生させるモードを多用できるように設計されている可能性が高い、というのだ。
通常、一般的な旅客機や、フォイリング・ボードなどでは、主翼の揚力は重心よりも後ろで発生するように設計されている。そのままでは機体は前転するので、後端部の水平安定板と昇降舵(エレベーター)に下向きにダウンフォースを発生させてバランスさせ、ピッチ角(機体の前後姿勢)を保持する。
AC75クラスの場合、主翼であるフォイルウイングは艇の中心線よりも数メートル風下側で揚力を発生する。そのことによって、船体を浮かせるだけでなく、セールによるヒールモーメントに対抗する動的な復原力も生み出す。
セールにさらにパワーを入れたいときに、船体中心線上にあるラダー下端のエレベーターにダウンフォースを発生させると、その復原力をさらに大きくすることができる。そのことで、艇速をさらにアップできる。
イネオスの挑戦艇は、クルーピットとマスト位置をルール最大まで前にして重心を前に寄せ、さらにフォイルウイングの位置をルール最大まで後ろにして、エレベーターにダウンフォースを発生させる状況を増やそうとしているのではないか。そしてほかの艇よりラダー位置を随分前にしているのは、そのダウンフォースを少しでも大きくするためではないか、というのである。
大会スケジュール
レースヴィレッジ&各チームのテックエリア
(文=西村一広)
西村一広
Kazu Nishimura
小笠原レース優勝。トランスパック外国艇部門優勝。シドニー~ホバート総合3位。ジャパンカップ優勝。マッチレース全日本優勝。J/24全日本マッチレース優勝。110ftトリマランによる太平洋横断スピード記録樹立。第28回、第30回アメリカズカップ挑戦キャンペーン。ポリネシア伝統型セーリングカヌー〈ホクレア〉によるインド洋横断など、多彩なセーリング歴を持つプロセーラー。コンパスコース代表取締役。一般社団法人うみすばる理事長。日本セーリング連盟アメリカズカップ委員会委員。マークセットボットジャパン代表。
※本記事は月刊『Kazi』2024年9月号に掲載されたものです。バックナンバーおよび電子版をぜひ
●AC日記04-7|アメリカズカップのレース艇比較研究、序章①
●AC日記04-8 | アメリカズカップのレース艇比較研究、序章②
●第37回アメリカズカップついに開幕。初日からトム・スリングズビー大暴れ!