初めてアメリカズカップを現場で観て以来約30年、その間、ニッポンチャレンジのセーリングチームに選抜されるなどしながら、日本のアメリカズカップ挑戦の意義を考察し続けるプロセーラー西村一広氏による、アメリカズカップ考を不定期連載で掲載する。新時代のアメリカズカップ情報を、できるだけ正確に、技術的側面も踏まえて、分かりやすく解説していただく。本稿は月刊『Kazi』9月号に掲載された内容を再集録するものだ。(編集部)
※メインカット写真|photo by AC37 / Joint Recon | 7月中旬、サグラダファミリアを遠くに望みながらバルセロナでの活動を開始したチャンピオン、ETNZのAC75テスト詳細のレポートも早速公開された
先月号のこの日記でも少し触れたことだが、1983年の第25回アメリカズカップ(以下、AC)が始まる直前のことである。数カ国からの挑戦者候補たちが米国東海岸のニューポートに集結し、挑戦者決定戦が行われていた。
そんな中、ある噂がニューポートのパブでささやかれるようになる。挑戦者決定戦を快調に勝ち進むオーストラリアの〈オーストラリアII〉には、それまでの人類の流体力学上の常識やセーリングヨットの固定観念を覆す、ウイングのようなものが付けられているらしい、という噂である。
その噂を裏付けるように〈オーストラリアII〉は毎日のレースの後にドックに戻って上架するときには、喫水線から下を厳重にスカートで覆い、チーム関係者と公式計測委員以外は誰もその船底を見たことがなかった。
この噂に米国防衛艇スキッパー、デニス・コナーが神経を尖らせた。なにせACの歴史が始まって以来132年、ただの一度も負けることなく無敵を誇ってきた米国の、防衛スキッパーである。責任は重大だ。さまざまな情報開示作戦を仕掛けたがかなわず、潜水夫をオーストラリアのドックへ忍び込ませたり、それがバレて騒がれたりもした。
ピーター・バーリングとともにETNZのAC75をステアリングするネイサン・アウタリッジも早速インタビューに呼ばれて、テストの様子を説明する
photo by Emirates Team New Zealand / YouTube
結局そのACで米国はカップを失うことになるのだが、それ以来ACでは、相手チーム艇の情報を探り合うスパイ戦が繰り広げられるようになり、各チームはそれぞれのスパイ活動に予算を割くようになった。
諜報活動は重要だが、それぞれのチームが雇うスパイの質はピンキリで、それぞれのチームにもたらされる情報も玉石混交だったりもした。
例えば2000年、ニュージーランドでの第30回ACのときのこと。我々ニッポンチャレンジがオークランドに持ち込んだ白いマストが、日本で極秘に開発された新素材でできた新型マストだという噂が立った。新素材であることを隠すために、特殊な塗料で白く塗っているというのだ。
事実は、オーストラリアにあった我々の秘密マスト工場で現地技術者によって作られたマストの最初の1本が、ある理由で所期性能を満たしておらずに使用不能となり、セーリングテストに必要なマストが足りなくなった。それで仕方なく、UVコートも剥がれてカーボン繊維のささくれさえ見られた古い古いマストを、急きょ白く塗って運び入れたのが、そのマストだった。
「極秘素材でできた新型マスト」だという噂が周囲に流れていることを知るまでは、その古くて色むらもある白いマストを使うたびに、パパラッチカメラマンたちが色めき立っているのが不思議だった。もし優秀な諜報部員だったら、日本はどうやら予算が逼迫しているようだという価値ある情報のほうを雇い主に報告することができただろう。
バルセロナのランドマーク的ホテル、Wバルセロナをバックにテストを続けるアメリカンマジックのLEQ12(手前)と、スイスのアリンギ・レッドブル・レーシングのLEQ12(奥)
photo by Alex Carabi / America's Cup
諜報チームのレポートには、その日の風と波のデータも添えられる
©Predictwind
共同諜報作戦とは
そんな時代から2021年の第36回大会まで、防衛者と挑戦者代表は、毎回のACごとに各チームの諜報部隊の活動ルール(スパイボートの敵艇への最小接近距離や、諜報活動していい時間帯など)を取り決めていた。
スパイ活動の費用は当然各チーム負担である。大会によっては有力チームのベースが世界各地に分散するから、諜報部隊をそれらの地域ごとで雇うか派遣しなければならなくなる。予算もかさむ。
そんなふうに長く続けられてきた各チーム独自の諜報活動だったが、来年開催予定の第37回ACでは、防衛者エミレーツ・チームニュージーランド(以下、ETNZ)から斬新なアイデアが提案され、それに各チームが飛び付くことになった。
それは、第37回AC運営サイドが参加各チームそれぞれの海上活動を監視する諜報員を雇い、その情報をすべてのチームで共有し、それらの諜報活動に関わる費用を全チームでシェアする、というアイデアである。つまり、自分自身が雇ったスパイによって自分もスパイされることになるが、他のすべてのチームの情報を、1チームをスパイするだけの費用で得られることになる。なんという名案だろう。各チームがすんなりと同意したのは当然だ。
そして昨年6月、第37回AC運営サイドは、オークランド(ETNZ)、マヨルカ島(イネオス・ブリタニア)、サルディニア島(ルナロッサ・プラダ・ピレリ)、フロリダ(アメリカンマジック)、バルセロナ(アリンギ・レッドブル)の5カ所に散らばるそれぞれのチームの活動拠点で諜報部隊を雇い入れた。
それぞれの諜報部隊は、RIBドライバーと動画/静止画カメラマンの2人チーム。彼らは担当するチームのすべての海上活動日に出動してその様子を撮影するだけでなく、風向風速、波高、離水スピード、最高速、タッキングやジャイビングの様子、フォイリング時間、セール、フォイル、エレベーター、トリムの様子、クルーワーク、ステアリング、そのほか、そのチームの艇の性能や、何をテストしようとしているのかなどを、各チームの開発担当者なら探り出せそうな、ありとあらゆる仔細な情報を含めて報告することが義務付けられている。
海上での活動から戻ってきたスキッパーやクルーにインタビューしてその動画も撮影しなければならない。
実はこの「みんなでスパイ大作戦」の恩恵にあずかっているのは第37回ACに参加する5チームだけではない。これらの、全チームの活動諜報レポートの概要部分はネットでも一般公開されていて、AC関係者以外も閲覧することができる。この連載の筆者も、とても恩恵にあずかっています。
アリンギ・レッドブル・レーシングがテスト中の、ダブルスキンメインセールの間に隠されているマスト後面艤装の詳細も望遠レンズで撮影され、レポートを添えて各チームに届けられる
photo by Alex Carabi / America's Cup
(文=西村一広)
※本記事は月刊『Kazi』2023年9月号に掲載されたものです。バックナンバーおよび電子版をぜひ
西村一広
Kazu Nishimura
小笠原レース優勝。トランスパック外国艇部門優勝。シドニー~ホバート総合3位。ジャパンカップ優勝。マッチレース全日本優勝。J/24全日本マッチレース優勝。110ftトリマランによる太平洋横断スピード記録樹立。第28回、第30回アメリカズカップ挑戦キャンペーン。ポリネシア伝統型セーリングカヌー〈ホクレア〉によるインド洋横断など、多彩なセーリング歴を持つプロセーラー。コンパスコース代表取締役。一般社団法人うみすばる理事長。日本セーリング連盟アメリカズカップ委員会委員。マークセットボットジャパン代表。
あわせて読みたい!
●9/5発売、月刊『Kazi』10月号|特集は「相棒は、デイセーラー」